SuperAI Singapore 2026 参加レポート:多くの企業にあるのは『AIの問題』ではなく『コンテキストの問題』である
July 3, 2026

2026年6月10日〜11日、シンガポールのマリーナベイ・サンズで開催されたアジア最大のAIカンファレンス「SuperAI Singapore 2026」に参加してきました。150カ国以上から1万人が集まりチケットは完売。今年はSingapore AI Week(6月8日〜14日)のアンカーイベントとして位置づけられ、市内全域で100を超えるサテライトイベントが同時展開される、まさに「アジアのAI業界が一堂に会する一週間」でした。米国・中国・欧州・アジアのプレイヤーが中立地シンガポールで交わるという構図も印象的で、フロンティアモデルからロボティクス、AIインフラ、金融まで、議論の重心が「AIの可能性」から「AIの実装」へ完全に移行したことを肌で感じるカンファレンスでした。
本レポートでは、数あるセッションの中でも筆者が特に注目した、Snowflakeによるフォーラムセッションを取り上げます。テーマは、多くの企業が直面している「AIをパイロットから本番へスケールさせる」という課題。そしてセッションを聴きながら筆者が確信したのは、次のことです。
多くの組織が直面しているのはAIの問題ではない。コンテキストの問題である。
前半でセッションの内容とSiemensの事例(公開ケーススタディに基づく)を紹介し、後半では筆者の考察として、この「コンテキスト問題」を日本のB2B企業の文脈でどう捉え、どう解決すべきかを掘り下げます。
注目セッション:なぜAIはPoCで止まるのか──Snowflakeが挙げた「3つの壁」
Snowflakeのフォーラムセッションで語られたのは、多くの企業に共通する課題でした。すなわち、小規模なパイロットから抜け出し、AIを本番環境で大規模に展開することです。
登壇者によれば、PoC(概念実証)の構築自体は比較的容易である一方、本番化の段階で多くのプロジェクトがつまずくといいます。その要因として挙げられていたのが、次の3つの壁です。
- ビジネスコンテキストの欠如
- ガバナンスとセキュリティの懸念
- 増大するAIコスト
そして登壇者が繰り返し強調していたのが、強力なAIモデルを持つだけでは不十分であり、AIが有用な結果を出すには、適切な社内データとビジネスナレッジへのアクセスが不可欠であるというメッセージでした。
モデルの性能競争が続く中で、企業側のボトルネックはモデルではなくデータとナレッジの側にある。この指摘は、筆者が日々RevOps/MOpsの現場で感じていることと完全に一致しており、深く頷きながら聴いていました。
事例:Siemensはなぜ「自動化の前」に基盤づくりから始めたのか
このテーマを考える上で格好の題材となるのが、Snowflakeが公開しているSiemensのケーススタディです。セッションの文脈を補足する意味で、公開情報に基づいて内容を整理します。
Siemensは工場のサプライチェーンにおいて、原材料不足による生産停止が頻発するという問題を抱えていました。当時のオペレーションは、人間の経験と勘に依存した手作業のプロセス。足りなかったのは「知性」ではありません。判断を下していたのは製造業で豊富な経験を持つ人材たちです。問題は、不足を予見するために必要な知識が、人々の頭の中(いわゆるTribal Knowledge=属人的知識)と分断されたシステムの中に存在し、機械はもちろん他の従業員すら到達できない場所にあったことでした。
そこでSiemensは、何かを自動化する前に、まずこの「理解」を組み立てるところから始めます。ケーススタディによれば、これはSiemensがロジスティクス領域でSnowflakeを活用した最初期のPoCのひとつで、ドイツと中国にある3つのファクトリーオートメーション生産拠点を対象に、複数のデータソースを接続し、サプライチェーン上の各原材料にリスクスコアを付与する仕組みを構築しました。この基盤があって初めて、システムが自律的にリスクを特定し、予防アクションをトリガーできるようになったのです。
この取り組みの土台にあるのが、SiemensがSnowflakeと構築した「Siemens Data Cloud」です。全社レベルのデータメッシュ・プラットフォームとして、それまで接続されていなかったデータソース同士をつなぎ、4,500を超えるデータウェアハウスを統合、600のプロジェクトが稼働し、1日30億件超のデータ変更を処理する規模にまで成長しています(移行前は世界最大級のオンプレミスSAP HANAデータレイクを運用していたものの、スケールの難しさや構造化・非構造化データの混在への対応が課題だったとされています)。
筆者がこの事例で最も重要だと考えるのは、次の点です。プラットフォームが供給したのは「判断」ではなく「接続」でした。どの原材料が重要で、なぜ重要なのかというリスクスコアリングのロジックは、あくまでサプライチェーンを理解する人間から生まれたのです。テクノロジーが果たした役割は、その知識を分断されたシステムや個人の記憶から解放し、到達可能で、共有可能なものに変えたこと。この基盤ができて初めて、自動化が、そして後にAIが、その上で有用な働きをできるようになったのです。
なお、SiemensとSnowflakeは2025年9月に、Siemens Industrial EdgeとSnowflake AI Data Cloudを接続し、製造現場のOTデータとITデータの統合(IT/OTコンバージェンス)を製造業顧客に提供する協業も発表しています。上記のサプライチェーン事例とは別の取り組みですが、「まずデータ基盤、その上にAI」という思想が一貫していることが分かります。
AIへの熱狂と、「解くべき問題」の取り違え
ここからは、セッションと事例を踏まえた筆者の考察です。
この数年、AIは経営層の会話を支配してきました。取締役会はAI戦略を議論し、CEOはAIロードマップを発表し、ベンダーはほぼすべてのソフトウェアカテゴリーにAIを組み込んでいます。この切迫感は理解できます。生成AIは、ほんの数年前には不可能に思えた規模で、レポートの要約、コードの記述、データ分析、コンテンツ生成をこなします。
しかし、この熱狂の裏で繰り返し同じパターンが起きていると筆者は見ています。AIツールに多額の投資をしながら、測定可能なビジネス成果を生み出せない組織が数多く存在するのです。社内コパイロットは一貫性のない推奨を出し、AIが生成したレポートは大量の検証作業を必要とし、従業員は熱心に実験した後、結局は慣れ親しんだワークフローに戻っていきます。
こうした状況に対する典型的な診断は、「より良いモデル、より良いプロンプト、より高度なAIインフラが必要だ」というものです。しかし、この診断は根本的な問題を見落としています。
コンテキストなき知性は、より良い意思決定を生みません。単に、より速い意思決定を生むだけです。
多くの組織は、断片化したナレッジ、分断されたシステム、一貫性のないプロセス、文書化されていない意思決定を、AIが補ってくれると想定しています。しかし現実には、AIはこれらの弱点を解決するのではなく、むしろ露呈させる存在なのです。
コンテキストとは何か。なぜデータより重要なのか
では、コンテキストとは何でしょうか。筆者は実務的に次のように定義しています。
コンテキストとは、「何が起きたか」だけでなく、「なぜ起きたのか」「それは何を意味するのか」「次に何をすべきか」までを説明する、組織の集合的なビジネスナレッジである。
多くの組織は、データを持っているがゆえにコンテキストも持っていると思い込んでいます。しかし、この2つは同じものではありません。
仮想例で考えてみましょう。ある企業が売上15%減少を発見したとします。データが教えてくれるのは結果です。情報のレベルでは、その四半期にリード数が減少していたことまでは分かるかもしれません。コンテキストはさらに先へ進みます。主要ディストリビューターが戦略を変更したこと、マーケティング投資が削減されたこと、競合が市場参入したこと、そして短期的な逆風にもかかわらず顧客のリテンションは堅調だったこと、そこまでを明らかにするのです。
最初の文は「事実」を提供します。2番目は「観察」を提供します。そして3番目だけが、「意思決定」を可能にします。
現実には、コンテキストはCRM、ERP、ドキュメント、メール、チャットツール、そして個々の従業員の中へと断片化していきます。その結果、企業はデータを蓄積し続けながら、それを一貫して解釈する能力を同時に失っていくのです。
データは可視性を生みます。コンテキストは理解を生みます。
強いコンテキストが競争優位を生む理由
強いコンテキストを持つ組織は、「何が起きているか」だけでなく「なぜ起きているのか」を理解しているため、より良い意思決定を下せます。チームが共通理解の上で動くため、アライメントも速くなります。重要なナレッジが属人化ではなく制度化されているため、特定の従業員への依存度も下がります。
そして強いコンテキストは、AIの価値を大きく引き上げます。AIシステムが有用になるのは、単なる生データではなく、信頼できる組織的理解にアクセスできるときです。
多くの意味で、コンテキストこそがAI時代の真の競争優位になりつつある、というのが筆者の見立てです。モデルはより安く、より入手しやすくなっていきます。しかし、組織固有の理解は、その組織にしか持てないものであり続けるのです。
組織に「コンテキスト問題」があることを示す5つの兆候
コンテキスト問題は、自ら名乗り出てはくれません。ダッシュボード上の数字やシステム障害として現れるわけではないため、長い間放置されがちです。その代わり、日々のオペレーションの摩擦や、リーダーがやり過ごすことを覚えてしまった小さな不整合の中に、間接的に姿を現します。筆者が国内外のB2B企業のご支援を通じて頻繁に目にする、典型的な5つの兆候を挙げます。
1. 同じ質問に対して、部門ごとに異なる答えが返ってくる
営業にパイプラインの健全性を聞けばひとつの答えが、マーケティングにリードの質を聞けば別の答えが、財務に売上予測を聞けばまた別の答えが返ってくる。一見するとデータの問題に見えますが、実際にはコンテキストの問題であることがほとんどです。根本的な問題は、チームに情報が不足していることではありません。各チームが異なる定義、前提、優先順位を通して情報を解釈していることです。共有されたコンテキストがない組織では、議論は「どのアクションを取るべきか」の対話ではなく、「誰の数字が正しいか」の論争になります。
2. 重要なナレッジが、少数の個人の中にしか存在しない
どの組織にも、他の誰も持っていない答えを持っているように見える人がいます。なぜあの戦略的意思決定がなされたのか、どの顧客が最も重要か、どのリスクを避けるべきか——彼らは組織の「記憶」そのものになっています。問題は、組織の記憶は本来、個人の中に宿るべきものではないということです。コンテキストが特定の従業員に依存している場合、昇進、退職、組織再編のたびに、どんなシステムでも容易には埋められないナレッジギャップが生まれます。人の中に閉じ込められたナレッジは、組織のナレッジではありません。組織のリスクです。 Siemensの事例で「Tribal Knowledgeへの依存を減らす」ことが出発点だったのは、まさにこの問題意識です。
3. 新入社員が「この会社が実際どう動いているのか」を理解するのに苦労する
多くの組織は、オンボーディングとはプロセスを教えることだと考えています。しかし実際には、効果的なオンボーディングとはコンテキストを移転することです。新入社員は「組織が何をしているか」は比較的すぐに学べますが、「なぜそのように動いているのか」を理解するには何か月もかかることが珍しくありません。強いコンテキストを持つ組織は学習を加速させます。弱い組織は、すでに知っているはずのことを何度も学び直し続けるのです。
4. AIが「賢そうな答え」を出すのに、誰もそれを信頼しない
多くの組織は、AIの成果が期待外れなのはテクノロジーが未成熟だからだと考えます。しかし多くの場合、AIには事業の優先順位、過去の意思決定、顧客との関係性、オペレーションの実態へのアクセスが欠けているのです。アウトプットは知的に聞こえますが、実務的な価値を提供できません。問題は人工知能ではなく、組織のコンテキスト不足です。 これはまさに、Snowflakeセッションで挙げられた「本番化を阻む第一の壁」と重なります。
5. リーダーが「結果は測れるが、説明はできない」
売上成長、チャーン、パイプラインの動き、マーケティングのパフォーマンス——これらを報告できる組織は多くあります。しかし、なぜその数字が変化したのかを自信を持って説明できる組織は、はるかに少ないのが実情です。説明を伴わない測定は、コンテキスト欠如の強いシグナルです。 データは「何が起きたか」を明らかにします。コンテキストは「なぜ起きたのか」と「次に何をすべきか」を説明するのです。
より良い組織コンテキストを構築する3つのステップ
症状の認識は、まだ易しいほうです。コンテキストの構築が難しいのは、それがテクノロジープロジェクトというより、組織が採用し維持し続けるべき「規律」だからです。筆者は次の3つのステップを提案します。共通言語から始まり、移転可能なナレッジへ、そして数字と同じ水準の説明責任を「説明」にも求める文化へ、という流れです。
ステップ1:共通のビジネス言語をつくる
AIがビジネスを理解する前に、まずチーム同士が互いを理解できなければなりません。組織は、有効リード、顧客、チャーン、商談、売上といった重要概念に対する共通定義を確立すべきです。コンテキストは一貫性から始まります。
ステップ2:属人的ナレッジを移転可能にする
繰り返しになりますが、人の中に閉じ込められたナレッジは組織のナレッジではなく、組織のリスクです。組織は、重要な専門知識を、従業員の入れ替わりや組織の成長を生き延びられる制度的ナレッジへと能動的に変換していくべきです。Siemensが人間の勘に頼っていたリスク判断を、リスクスコアという形式知に変換したのは、この好例といえます。
ステップ3:エビデンスに基づくコンテキストの文化を築く
多くの組織は、すでに業績に対する「説明」を記録しています。問題は、その説明が学習のためではなく、報告のために書かれていることです。売上減少は「市況」のせいにされ、パイプラインの弱さは「季節性」で片づけられ、チャーンは「予算制約」で説明されます。これらの説明はもっともらしく聞こえますが、多くの場合、思い込みや不完全な観察、あるいは政治的に都合の良いナラティブにすぎません。
コンテキストは、信頼できるときにのみ価値を持ちます。
組織は、指標だけでなく「説明」にも説明責任を持たせるべきです。リーダーは日常的にこう問うべきです。「この結論を支えるエビデンスは何か?」「それが本当の理由だと、どうやって分かるのか?」
先ほどの仮想例でいえば、「市況により売上が減少した」と述べる代わりに、「主要ディストリビューターが投資を削減した後に売上が15%減少し、競合の市場参入後に受注率が28%から18%に低下した」と説明する。この差は、エビデンスの有無です。前者は人を守るための文章であり、後者は組織が学ぶための文章です。
そしてこの点は、AI活用に直結します。AIは与えられたコンテキストの範囲でしか推論できません。 人間が不正確で、不完全で、政治的にフィルタリングされた説明を組織に流し込めば、AIはその弱点をスケールさせて増幅するだけです。目指すべきは、より多くのコンテキストをつくることではありません。より良いコンテキストをつくることです。
自動化する価値のある「自己理解」は存在するか
AIはこれからも、より速く、より安く、より高性能になっていきます。しかし、そのどれひとつとして、組織の知性を自動的に生み出してはくれません。モデルはコモディティ化していきます。希少であり続けるのは、自社の顧客、自社の市場、そして自社の意思決定がなぜ機能したのかについての、その企業自身の理解です。
Siemensの事例が示す教訓は明確です。同社はまず自社のオペレーションを自社自身にとって読み解けるものにすることから始め、自動化はその後についてきました。多くの組織はこの順序を逆にしています。先にテクノロジーに手を伸ばし、その下に「推論の対象となるもの」が何もなかったことに、しばしば高い授業料を払って気づくのです。
だからこそ、AIが自社をどう変革できるかを問う前に、より難しい問いを先に立てるべきです。
あなたのビジネスは、自動化する価値があるほど、自分自身を理解しているでしょうか?
今回のSnowflakeセッションの議論は、Gartner Marketing Symposium/Xpo 2026基調講演で示された「More Context, Not More Content」というメッセージと、驚くほど響き合っています。マーケティングの文脈でも、データ基盤の文脈でも、世界の議論は同じ場所に収斂しつつあります。すなわち、AI活用の成否を分けるのはモデルの性能ではなく、組織が自らのビジネスをどれだけ深く、一貫して理解しているかだということです。
私たちが日々ご支援しているRevOpsやMOpsの現場でも、この「コンテキスト問題」は最も頻繁に遭遇する課題です。リードや商談の定義が部門ごとに異なる、意思決定の背景が文書化されていない、重要なナレッジが特定の担当者に依存している——これらはすべて、AI導入以前に解決すべき組織の宿題であり、同時に、解決すれば競争優位に転じる資産でもあります。共通言語の設計、プロセスの文書化、エビデンスに基づく説明文化。地味に見えるこれらの取り組みこそが、AI時代における最大のレバレッジになると確信しています。
参考資料
- Snowflake: Siemens Builds an Enterprise-Wide Data Mesh Platform to Accelerate Innovation(ケーススタディ) ※本文のサプライチェーン事例・Siemens Data Cloudに関する記述の出典
- Siemens Press Release: Siemens and Snowflake enable IT/OT convergence across edge and cloud for industrial customers(2025年9月) ※両社の協業に関する関連発表
- Snowflake Press Release: Siemens and Snowflake Enable IT/OT Convergence Across Cloud for Industrial Customers(2025年9月) ※同上
- SuperAI Singapore 2026 公式サイト
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